ひび割れホワイトボード

サハーにおける真人間となるために四苦八苦しているプシュケー的主体はゲデの導きによりその構造領域を集合的無意識まで遡りアストラル光を媒体にSurfaceを通じて宇宙と繋がり内なる自己との対話を繰り返す無限の虚無を表記し続けるただの社会復帰日記

悲惨な経験をした人が陥る道徳観の喪失という話

 大した話ではないのだけど、下のツイートをたまたま見かけてふと思い出したことをつらつらと。

b.hatena.ne.jp

 私は借金玉さんは知人でもフォローしているわけでもないけれど、私のフォロワー伝になんとなーく話を聞いた事がある人程度の認識。Twitterにも好きなアルファ、嫌いなアルファ、興味ないアルファがいるわけで、特に今まで気にもかけていない方でした。このツイートもたまたま他のブクマの隣にあったのを見かけたもの。ただ、こういったきっかけで自分の記憶や考えがフラッシュバックするのはSNSの面白い所だと思うし、せっかくコメダ珈琲でドヤってるので記事にしてみる。

 

 ツイートの内容はこうだ。躁鬱でどん底のときに知人から「鬱は甘え」というお決まりの言葉を投げかけられる。その知人が現在精神科に通っている情報を得て、ツイート主さんはトドメを入れる権利があるか悩んでいる、というもの。

 つらい経験は誰でもする上に、その辛さ故に復讐が認められるのではと思ったことがない人は少ないだろう。私も同じことを思ったことがあるし、むしろそれは認められてしかるべきではと思ったこともある。いわゆる私刑にもつながる話だ。
 ではその私刑や私的制裁は辛い経験をすることで得られる権利なのかというと、当然違う。それはほとんどの人が冷静かつ論理的に他人を観察し考察すれば納得するはずだ。君が辛い経験をすることと君が誰かを裁くこと、平たく言えば殺したり傷つけたりする権利はないということを。このツイート主さんも、まったくの見ず知らずだけどそれくらいのことはわかると思う。

 私がこのツイートで思い出したのはヴィクトール・フランクルの『夜と霧』だ。ユダヤ人心理学者の著者がナチス・ドイツ期におけるユダヤ人収容所の経験を書いたもので、著者は収容期間中の生活を心理学分析の対象とし(自分を含む)、またそれを支えとし生き延びたという内容のものだ。この本は様々な示唆を与えるものであり、主としては人間は何故生きるのか、であり加えて極限状態で人間はどう変化するのかである。本書の至る所で収容所生活での様々な人間の行動、反応から極限状態における人間の変化を観察、分析している。
 ここでその内容は詳しく語らない(興味が少しでもあれば是非読んで欲しい。私の人生観に大きな影響を与えたスマッシュヒットな名著である)。先のツイートで思い出したのは本書の著者が終戦を迎え、収容所を出た直後、仲間の一人の行動を咎めた件でありそれは以下の主旨である。
 収容所生活を終え自由になり、著者は一人の仲間と収容所の外を歩いている。著者の仲間は目の前にある他人の麦畑の中をズカズカとお構いなしに歩いていき、それを著者は咎めるとその仲間は苛立たしげにこう言った。
「今まで私達が受けた仕打ちに比べれば、麦が少し折れるくらい何だというのだ」
 正確な言葉でなかったかもしれないが主旨は間違っていないはず。要は先のツイートと本書のこの件はまったく同じことを言っているという点でリンクし、記憶から呼び起こされたということだ。
 さて、著者はこの麦畑を歩く男についてこう考えた。かくもこの世の最底辺まで不条理に貶められた人間は、自由を得るだけで元の人間に戻ることはできず、むしろその経験故に道徳心や価値観を失い、またそれを取り戻していかねばならない。これも同じくそういった主旨で書かれていたという記憶なのであしからず。

 私は本書のこの件を読んで、確かに僕らはそう変わってしまうしそれは喪失なのだなと感じた。そしてそれは世の中にありふれた現象であることも同時に思った。人としての道徳心や価値観は得て、育むだけでなく失うものでもあるのだと知った時であった。

 先のツイートについて、議論百出となっているかは知る由もないが、リプライやRTで色々と飛んできているのだろうなとは想像できる。道徳心や価値観は日々の生活の些細なことでも消し飛んでしまう可能性がある細やかな物なのであり、大きな傷を負った人ほど喪失の可能性は大きく、またそれを取り戻すのは難儀するものということをふと思い出させるツイートであった。まったく関わることのない人の些細な言葉でも、ここまで頭を動かさせてくれるのだからSNSは面白い。