ひび割れホワイトボード

サハーにおける真人間となるために四苦八苦しているプシュケー的主体はゲデの導きによりその構造領域を集合的無意識まで遡りアストラル光を媒体にSurfaceを通じて宇宙と繋がり内なる自己との対話を繰り返す無限の虚無を表記し続けるただの社会復帰日記

帰郷は思い上がらぬよう自分を見つめ直す儀式

 先日この記事を読んだ後に、記事内で語られている学歴の分断とそのた色々を感じたので書く。年明けから妙に陰鬱な記事が続くが自分なりにエンジョイしているのでまだ大丈夫だと思う。むしろ時間がある分、色々と考えさせられる。

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 しろさんこと私の生まれは決して良いとは言えない。田舎の貧困層ブルーカラーの家に生まれ、母子家庭でありながら反抗期も有りろくに勉強もせずに青年時代を過ごし、怠惰に生きていた。幸運だったのは私の教育計画として大学の進学を母が考えていたことだ。私は生まれて初めて自分がやりたいと思えた勉強ができ、大学に進学したのは非常に有意義な経験となった。その後、就職について紆余曲折やらトラブルがあったが、客観的に見て今の勤め先や立場は外面は悪くない。いや良いと言ってもいいのかもしれない。これを得られたのはほぼほぼ幸運だっただけだと心から自覚している。仕事にヤラれたのは非常に不幸なことであり、今も完全に過去の経験を飲み込めていない自分がいるが、少なくとも、前よりはまともといえるくらいにまでは改善されている。

 

 そして今、私は実家に帰郷している。年末年始と夏の休暇は可能な限りそうするようにしている。特別な理由はなく、別に今の住処にいてもいいはずだ。どこかへ旅行にいってもいいはず。だけど、今のところそうしたことは一度もない。せいぜい、職場から実家までの帰る途中、途中下車してどこかの土地を軽く巡るくらいだ。今のところ、最短で実家に帰れても5時間かかったので、長い移動の気晴らしになると思っている。転勤族という根無し草のお陰で目ぼしい大きめの都市はだいたい行くことが出来た。北海道と東北はあまり縁がないため今後に期待している。

 

 帰郷すると儀式がある。大したことではなく、ただの親族及びその友人などの集まりだ。つまり宴会だ。特に年末年始は必ず行われる。子供のころは、この行事は好きだった。祖父母や従兄弟にも会える、好きなものを飲み食いできる、お年玉も貰える。しかし、もういい年になった今となっては少々苦痛を覚える。別にお年玉を払う側になったから、というわけではない。少子化を肌感覚で感じられる私の田舎において、何かの縁で出会えた子供に僅かな金を、それも大手を振って渡せる機会でもある。私にとってお年玉は寄付か喜捨のようなものだ。何も言わずに金だけ渡す。
 だが、それ意外は少々苦痛だ。それは自分の生まれの悪さや血筋、遺伝的劣等性を再確認する儀式だからだ。少なくともそういう嫌いがある。上記に貼付したリンクの記事において、私はこの記事に書かれている高卒の両親から生まれた大卒の私は幸運な15%であった。満足行く学生生活ではなかったが、相対的には悪くない。そして私の親族関係にそういう人間はほとんどいない。この宴会に集まる方々の内、大卒は3名。内1名はニート、2名はブルーカラー。他の10数名は全て高卒ブルーカラー、サービス業が何名かいたがホワイトカラーとはいい難い。私の両親も当然ブルーカラーの高卒だ。兄弟もサービス業でこき使われている。
 宴会もいたってシンプルだ。酒を煽り騒ぐ。以上。ウェイウェイしているのと何ら違いは見られない。年齢層が上にスライドしただけだ。私は時々辛くなって耳をふさぐ事がある。大した酒も出ない。酒好きな叔母曰く、飲み比べても分からないのでプレモルやエビスより一番搾りの方が良いそうだ。それなら発泡酒でいいだろうと思うが安すぎて駄目らしい。私は働きに出るのが少し遅かったため、叔父が品もなく酒の肴にその話をしてくる。何度目だろうか。宴会のたびに、私がとても小さく幼い頃にやった愚行の幾つかを話してくる。私はとっくに忘れていたのに。死ぬまで謝罪させるつもりなのだろう。一つだけ助けられるのは、母もあまりこういう集まりが得意ではないことだ。私と同じく居辛そうにしているが、私ほど露骨にもしていない。私の母は正直な所、至らぬ点も多々あるが、こればかりは素直に尊敬する。どこで身につけたのだろう。

 

 いわゆる、彼らは一般的な社会の下層に当たる人々の考えで生きている。馬鹿にしているわけではなく、私自身も彼らと同じ階層にいる人間なのだ、ということを再認識する場と捉えている。謙遜など一切ない。ただ、最下層とは呼べない程度の下層民だ。一つ一つの家において、就労している割合が高いため、合算された賃金は大きく低いわけではない。私の知る限り無意味又は大きすぎる消費に費やされているだけだ。
 彼らと会うと、自分の社会人生活とは大きな違いを感じられる。明確に何かとまではわからないが、一種の差を覚える。それは優越感があるわけではなく、かといって悲観的でもない。この差はまだ上手く言語化できない。だが少なくとも、客観的に見て現在の私のステータスはその境遇には見合わない程の成長を遂げた又は遂げてしまったと考えている。正直、私には荷が重すぎると思うことも多々ある。例えるなら。まかり間違って社交界に入ることになった労働者階級のような気持ちだ。映画のように華々しいものではない。常に届くことのない高い壁の上にいる人間と対比させられる。私が突出して有能なわけでもない。これも、先に述べたように私はたまたま幸運にもこの社会に入っただけだ。それが幸運だったかどうかは未だに分からないが。
 全てが全てではないが、この業界のハイブロウであったり、エスタブリッシュメントのような立場の人間、又はそういった将来の展望がある優秀な同世代の人間と共に過ごしていると、自分のことを見失いがちになる。高位の人間がいる環境にいることと、自分が高位であることは必ずしもイコールではない。そして高位の環境を構築する際、自分のような異物が内包することは往々にしてある。そうした異物は排除され、中和され、そうした時期を乗り越えた後に残留する。悲観的すぎるだろうか。それでも組織を維持する上で無能をどうするかという命題は常にあるはずだ。その浄化作用は明文化されている場合はほとんどないが、浄化作用に相対すれば、当然肌で感じ取ることが出来る。
 長く自分を偽ると侵食される。自分を見失わないように、思い上がらぬように、勘違いせぬように、自分の脳髄、精神、心理、血、遺伝子、これらを見つめ直すために私は帰郷しているように思う。何もそれらを感じるのは宴会だけでない。久々に会う故郷の友人との会話や、風景をみて浮かび上がる思い出からも感じ取ることが出来る。私はこの土地を出られることに大きな利点を感じ今の仕事を選んだが、結局のところ故郷に束縛されているのはなんとも滑稽だ。