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ひび割れホワイトボード

サハーにおける真人間となるために四苦八苦しているプシュケー的主体はゲデの導きによりその構造領域を集合的無意識まで遡りアストラル光を媒体にSurfaceを通じて宇宙と繋がり内なる自己との対話を繰り返す無限の虚無を表記し続けるただの社会復帰日記

消費が幸福に繋がらない疑問及び選択することが幸福であるという仮説

日記

 少し前から気になり始めて、暇な時の考え事リストの一つとなっていたことがある。きっかけはこの記事だったので、ブログのことだしせっかくなので書いておく。なお、まだ仮説の段階。
 きっかけとなった記事はこちら

pipipipipi-www.hatenablog.com

 

1、疑問の原点
 11月の記事なので少し前だけど、これを読んで「あぁ、やっぱりそうなのか」と思ったのが第一印象。それは、消費が幸福に繋がらない、ということだ。
 根本的に人間は欲求を満たすことで幸福になるはず。不思議なのは、欲求から生まれるはずの消費行為は幸福に必ずしもつながらない、これが何故なのかが最近の考え事だった。

 例えば好きなものを好きなだけ食べたり、好きな酒をしこたま飲んだり、欲しいものを見境なく買ったり、惰眠を死ぬまで貪ったり、朝まで踊り続けたり、僕らの根源的な欲求から行われる行為を実施しても何故か後日後悔する。二日酔いが良い例だ。投資ではなく消費、もしくは投機の場合もあるだろうか?
 これと同じく承認欲求についても似たようなものかと疑問に思うことはある。これも際限ない消費するという欲求なのではないかと。だけどまだ言語化できるほど纏まっていはいないので省略。

 

2,何が幸福なのか
 この問における始まりは、何が幸福なのか?だと考えられる。「欲求を満たす=幸福」は正しくないようだ。「欲求が満たされない=不幸」も少しズレを感じる。空腹なので何かを食べるのは幸福だが、不健康に食べたがゆえに後日不幸を感じることは大体の人が経験したことがあるはず。時間軸が幸福の価値観を変質させたのか、最初からただの消費だったのか。ここまできてやっと、そもそも消費することそれ自体が欲求ということに気づく。買い物は、買うのが楽しいというやつだ。そうなると消費は快楽のようだ。「消費=快楽」と「快楽≠幸福」で「消費≠幸福」。消費行動がドライブするための鍵としての欲求、欲求を満たすことは快楽を得ることのようだ。
 貨幣経済になって何年経ったのだろうか、そんなこと誰でも知っているだろう、という事にたどり着くのは結構楽しい。自分の愚かさを別にすればだが。
 話の前提は以上。次は幸福を感じる経験則から何が幸福かを解く。客観的にみれば、ただの我慢に思える行為がある。しかし本人はそれに幸福を感じている。例えば、食べたいものを我慢すること、運動という自ら身体に負荷を与える行為、眠さやだるさを我慢して語学等の勉強、決して豊かではないが温かい家庭、金をかけ山に登ったり海にも潜ったり、一見、欲望に逆らっている。何が楽しくて42.195キロも走るのか?30万もかけて雪山に登る?食事の回数は人生で限られているのに何を我慢する必要があるのか?しかし、それを選択する本人はいたって満足だ。私もそうだ。結果がどうなるかは別として、その選択をした自分に対して充足感を感じる。

 

3,選択という行為に幸福を感じる
 これはあくまで仮説だが、昨年の自分は今までの生活と大きく変わった。客観的にみて、それ楽しいの?それでいいの?とよく言われる変化の一つに食事がある。朝食はシリアルorミューズリー、昼食はのり弁(一番安い)、夜はプロテイン・蕎麦・ビスケットのどれかとコーヒーor紅茶。これは就労日(概ね平日)のみの食生活であって、休日は料理を楽しんだり好きなものを食べる。私はいたって満足だ。食事を考え用意するというデイリークエストが半分自動化されたからだ。食事の選択肢が多いとまずそれに負担を感じ、食べた後に満足したか否かでまた感情を動かさせられる。できれば平日は全てソイレントにしたいくらいだが、現状、輸入計画が頓挫している。もう一つ例を挙げると、私は昨年、自らの意思で外を走り始めた。運動能力について先天的に欠陥を抱えていることと、有酸素運動による老化の促進、関節の摩耗が嫌でランニングはかなり否定的であったが、必要になったので始めた。辛いが、必要だという結論になったのでとった選択だ。それ故に今のところ満足している。これもボルダリングなるとてつもなく面白い競技のためだ。ボルダリングは競い合うこともなく、かといって有酸素運動のように長時間辛いこともなく、自分と向き合うスポーツだ。とても気に入っている。ちなみに上達過程が音ゲーと似ているのも気に入っていることの一つだ。
 また話がそれた。一見、不幸又は辛いと感じられる行動を我々は選択する。それは幸福と結びついている。少なくとも個人的な充足感と関連が深い。人によっては快楽さえ得られる。筋トレ好きが良い例であり、そしてそれは私も理解できる。選択することが幸福につながり場合によっては快楽にもなる。なぜその選択をするのか、という理由を自が考え合理的と判断し実行すると、幸福につながる。そこに客観性は関係なくなるのではないか。以上が人間を幸福にするのは選択するという行為そのものにあるのではないかという仮説。あと3歩くらいはステップアップできそうな考え事なのでまた変化があれば追記していく予定。